静かな山小屋をつくる理由―思想と表現の純度を保つために

トップ絵: 背を向けた若い女性のいる室内 (1903-04) - ヴィルヘルム・ハンマースホイ

GitHub Pagesに移行した理由を文章にしました。

はじめに 言葉が濁る時代に

SNSやnoteで文章を書いていた頃、ずっと心に引っかかっていたものがありました。

現在の社会では、発信自体は非常に容易になりました。手元のスマートフォンから数分で思いを公開でき、それが誰かに届き、コメントやリアクションが返ってくる。その点はとても便利です。

しかし、しばらく続けているうちに、自分の言葉が”自分のもの”ではなくなっていくような感覚を覚えました。いつの間にか自分の言葉が誰かの期待に沿うような形になっていたと言えばいいかもしれません。

「目を引くか」「誤解されないか」「わかりやすいか」といったことに意識が向くほど、本当に伝えたかったことの輪郭が曖昧になっていくのです。

「結局、自分は何を伝えたかったのだろう?」そんな疑問が生まれました。

いつの間にか、誰かの注意を引くための「型」に自分の思想を流し込み固めているような気がしていました。

noteも同様でした。

最初は「自由に書ける場所」だと思っていたのですが、想像以上にマネタイズの影がちらつく空間でした(たとえばPythonで検索してみると少し違和感を覚えるコンテンツも多く見つかります)。

「このプロンプトだけで稼げる!」といった商材や生成AIの出力を切り貼りして”それっぽく”売るコンテンツ、思想の見えない空虚なアカウントにフォローされるたび違和感が募っていきました。

「思想」よりも「演出」が勝る世界では、言葉がどこか嘘っぽく感じられるようになったのです。「どこに書くか」が「何を書くか」にこれほど影響を及ぼすとは、当初思ってもみませんでした。

発信のプラットフォームは単なる「場所」ではなく、書き手の姿勢や感覚を静かにしかし確実に変えてしまう「環境装置」なのだと気づきました。

だからこそ、自分の言葉を濁らせないために「どこで書くか」を見直す必要があると感じました。

そうして私は静謐な場所を探し始めました。

情報の海からの静かな脱出

noteやInstagram、X(旧Twitter)を眺めていて気になるのは情報量の多さです。

X、どうなってんねんこの情報量

しかし本質的な問題は「量」ではなく、”売ること”や”見られること”を目的に多くのコンテンツが設計されているという点にあります。

言葉が「売れるかどうか」というフィルターを通らなければ存在できない世界に対して違和感と疑念を持ちました。

この10年ほどでnoteもXも、かつての自由な発信空間から「思想を商品に変換するファクトリー」のような場所へと変わってしまった印象を持っています。

そして、この構造の厄介な点は、その中にいると異常さに気づきにくいことです。

「多くの人がそうしているから」「成果が出ているから」「賢く立ち回るのは悪いことではないから」。そんな考えが知らぬ間に自分をノイズの一部にしてしまうように感じていました。

意識していたわけではありません。しかし確実に「読まれるための文体」「共感を得やすい表現」「結論ファーストの構造」など、誰かの目線が文章の内側に入り込んでくると思いました。

正直に言えば「これは気持ち悪い」と思いました。自分が最も大切にしたいものがプラットフォームの雰囲気に迎合してしまっていた。そのことにようやく気づき「ここにはいられない」と感じるようになりました。

これは逃避ではなく、思考の純度を取り戻すための「脱出」でした。

なぜGitHub Pagesだったのか

たどり着いたのはGitHub Pagesという静けさに満ちた場所でした。

そこにはコメント欄(設置は可能ですが)いいね、レコメンドといった機能はありません。ただ、自ら設計したページがあるだけです。まるで綺麗に整えられた静かなGeoCitiesのようです。

しかし、まさにそこが魅力でした。

まるで山奥にひっそりと佇む無人の山小屋を自分の手で一から建てるような感覚。素材を揃え組み立て暖を取りながら、自分のペースで整えていく。そこに誰かが訪れるかどうかは問題ではなく、ただここに言葉を置いておきたい、それだけなのです。

GitHub Pagesの最大の魅力は、ある種の技術的なハードルにあるのかもしれません。

誰にでも気軽に始められるというわけではありません。GitやMarkdown、Jekyll、Hugoなど、それなりの知識と手間が必要となります。

だからこそ、そこには「本当に書きたい人」しかいない。結果としてその空間全体の純度が自然と保たれているように感じられます。

Markdownで文章を書くことも、どこか禅的な趣があります。

余計な装飾を施すことなく、見た目の印象を気にする必要もなく、ただ構造と内容に集中してタイピングする。それはまるで言葉そのものの骨格と向き合うような行為です。

この場所では「書くこと」と「設計すること」が地続きとなります。

テーマの選定やディレクトリ構造、トップページの導線、タグの設計といった全てが「自分の思想の地図を自分で描く」営みとなるのです。

思考がどこから始まり、どのようにつながりどこに配置されるべきか。

発信とは単にアウトプットすることではなく、それをいかに整えるかという”思想の編集”でもある、そのように気づかされました。

GitHub Pagesは、そうした「編集された思考の空間」を持つことのできる貴重な場所だと思います。

ここでは言葉が濁らない。ノイズも聴こえてこない。

ここならば自分のままで書くことができます。

まるでそれは山奥の小屋に薪を積みストーブの火を絶やさぬように暮らす感覚に似ています。

訪れる人がいるかどうかは関係ありません。自分の思想がゆっくりと発酵するための時間と空間があれば、それで十分です。

急いで言語化する必要もなく、思考が静かに熟していく場所。そんな場所は今や極めて稀少です。

この小屋には誰も訪れず、広告のチラシさえ届かない。

「読まれること」を前提にしない場所だからこそ、言葉の方向や重さが自然に自分の内側に向かっていく気がします。

この自由は今の時代においては贅沢すぎるほどの贅沢だと感じます。

結局、私はこの小屋に言葉を置くことで「自分のために書く」という行為を取り戻すことができました。

書きたいから書く。考えたいから記録する。

誰のためでもなく、誰にも妨げられることなく静かに自分の思想と向き合うこと。

もしかするとこの山小屋は他の誰かにとっては「ただの地味なHTML」に過ぎないかもしれません。

それは、まだ言葉になる前の思想が時間の中でゆっくりと形になっていく場所。

誰にも急かされず、ただそこにあるというだけで少しだけ呼吸が深くなるような感覚です。

金が先か、思想が先か?

気づけば言葉の多くが「売るため」に発せられるようになっていました。

note、YouTube、Xといったあらゆるプラットフォームが「マネタイズ」を起点に設計されているように見受けられます。

書いた内容に値段をつけられる。シェアされればフォロワーが増える。再生数に応じて収益が発生する。

それらは確かに便利で夢があると感じる方もいらっしゃるでしょう。

しかし、それらが「書く前に意識される構造」になった瞬間、文章の重心が大きく変わってしまうのです。

「どう書きたいか」よりも「どう売れるか」。

「自分は何を考えたか」よりも「どうすれば買ってもらえるか」。

その瞬間から、思想は”売りやすいサイズ”に切り分けられ装飾され最適化されていきます。

まるで食品工場で無理やりパッケージに詰め込まれるかのように。

そして元々の風味や余白、雑味までもが失われていきます。

もちろん、思想が評価されお金という形で返ってくること自体は素晴らしいことです。

問題は、その順序にあります。

まず思想があり、それが誰かに伝わり必要と感じた人が自然と価値を見出す。

それこそが本来あるべき流れだと私は考えています。

ところが現代では、多くの発信が「収益化可能か?」というフィルターを最初に通されてしまいます。

思想の深さよりもタイトルのインパクト。

言葉の誠実さよりもリード文のキャッチーさ。

「売れるために浅くなること」がまるで正しいかのように奨励される空気がたしかに存在していると感じています。

だからこそ私はそうした空気から一定の距離を置きたかったのです。

誰かのためではなく、まずは「自分にとって必要な思想」を自分のために書く、そのような姿勢を取り戻したかったのです。

もしそれが偶然にも誰かの心に触れ価値を持ったとしたら、それは本当に嬉しいことです。

しかし、それはあくまで副産物であり、本質ではありません。

思想とは、先に金を見ない方がのびのびと育っていきます。

そして金銭とは、思想がしっかりと熟したあとに静かにやってくる方が、その関係性も長続きする。今はそう確信しています。

表現空間の選択が、アウトプットの純度を決める

どれほど深く思考を重ね、どれほど誠実な言葉を紡いでも、それを「どこに置くか」によってアウトプットの質は大きく左右されてしまいます。

言葉は空間の影響を受けます。

音の反響、光の加減、温度、ノイズ──それらが空間において人の感覚に作用するように、文章にとっても「空間」は極めて重要な要素なのです。

物事に集中するには静かな空間が必要です。

それと同じようにじっくりと物事を考え丁寧に言葉を紡ぎたいときには、それにふさわしい「表現空間」が求められるのです。

私にとって、それがGitHub Pagesでした。

この空間では他者の目を過剰に意識する必要がありません。

誰かに評価されるために書くのではなく、自分が積み重ねてきた思考の軌跡を「アーカイブ」する場として、この静けさは理想的でした。

思考は、書いた瞬間にひとつの形となります。 けれど、その言葉は時を経て、再び読み返され、揺らぎそして書き直されることもある。

そうして思想は、静かに育っていきます。 GitHub Pagesのような静的な空間は、まさにその「思想の発酵」に適した環境であると感じています。

現在は、情報が飽和した時代です。 検索すれば、ほとんどの答えは瞬時に見つかりAIに問いかければ、それらしい返答が即座に返ってきます。

しかしそのような便利さがあるからこそ、「自分は何をどう考えたか」という思考の痕跡を自分の言葉で残すことの価値は、むしろ今、非常に高まっているのではないでしょうか。

どれほど技術が進化しようとも、思考の過程だけは自ら歩いて初めて刻まれるものです。

そのためにこそ、自分の言葉を丁寧に蓄えられる場所、自分の思想を見渡すことができる空間が必要なのだと感じています。

GitHub Pagesは、私にとってそのような「思想の図書館」のような存在です。 貸し出しも返却期限もありません。 ただ、自分のための言葉たちが静かに並び続けています。

時折ふと読み返すことで、「ああ、当時はこんなふうに考えていたのか」と感じることができます。 そうした場があるというだけで、日々の思考に静けさと余白が生まれます。

アウトプットの純度は、どのような空間で表現するかによって決まる── それはきっと、どれだけテクニックを磨いても辿り着けない、大切な真理なのだと思います。

ピアノを弾く妻イーダのいる室内(1910) - ヴィルヘルム・ハンマースホイ

おわりに 思想は、静かに育てるもの

この場所を選んだのは、決して目立ちたかったからではありません。 むしろ、目立つことなく、言葉を濁さずに書きたかったからです。

しかし、それこそが、言葉を丁寧に育てていくために必要な条件だったのです。

私がこの空間に言葉を置き続けているのは、 「いつか誰かの目に留まるかもしれない」という淡い期待が、まったく無いわけではないからかもしれません。

けれど、それが目的ではありません。 自分が何を考え何に迷い何を信じていたのか、 そうした内省の痕跡をきちんと言葉として形に残しておくために、この場所が必要なのです。

それはまるで、ひとり薪を割ってストーブに火をくべるような営みかもしれません。 誰かが訪ねてくるかもしれないし、来ないかもしれない。

けれど、もし偶然この山小屋を訪れた誰かが、そこでほんのりとした温もりを感じ、 「ああ、こんな場所があったのか」と思ってくれたとしたら──それだけで十分です。

SNSのように声が飛び交う広場も、それはそれで魅力的です。 noteのような賑やかなカフェも、決して悪くはありません。

ですが、私は少し離れた場所で、静かに火を焚きながら、言葉を発酵させるような暮らし方を選びました。

それが、今の私にとって、ちょうどよいのです。

思想とは、決して焦って伝えるべきものではありません。 静かにそして丁寧に育てていくものだと、私は思います。

そして、そのためには思想を静かに育てていくための「空間」が、どうしても必要なのです。